住まいの源流を訪ねてアジアへ

 中国・福建省=客家の円楼はUFOを思わせる不思議な建物だ 
(文・写真 松下寛光)


福建省永定県の土楼の村

廈門に着く早々トラブル

 香港を経由して、中国・福建省の経済特区でいまや発展著しい廈門(アモイ)の空港に着いたのは、1993年3月26日であった。桑沢デザイン研究所でデザイン論を教えるI先生と私は、この廈門を起点に中国・漢民族のなかでも特異な存在として知られる客家(ハッカ)人が暮らしている何とも不思議な建物である、円形の集合住宅を取材するためにやってきたのである。
 空港を出ると日本で連絡を取ってあった、ガイドとドライバーが迎えに来てくれていた。少し遅めの昼食を取りながらガイドと今回の旅の全行程の碓認と打ち合わせを行った。というのは我々があらかじめFAXしておいた、取材ルートが現地の事情もあるということで、大まかにしか決めていなかったからである。
 地図を広げ訪ねたい客家人の村々を記入して、道路事情や時間的制約の中で可能なルートと不可能なルートを確認するとともに、新たな希望も伝えることにした。

 ところが、我々のラフな服装に比べ背広にネクタイをしたビジネスマン風のガイドの言うこととどうも話が噛み合わないのである。この時点で嫌な予感が頭を過ぎった。どうやら彼は観光ガイドらしい。事前に我々は観光に行くのではなく取材に行くので、現地の地理や村の事情に詳しいガイドをお願いしたいと、しつこく伝えてあったつもりであったが、まったく伝わっていなかった。何かと言うと「そこへ行くのは難しい、そんな山奥まで行くには時間がかかるし、事前に聞いていないので手配できない」と否定的な答えしか返ってこない。とうとうI先生が怒りだしてしまった。こうした行き違いは中国ではよくあることとはいえ、これでは先行きが心配になろうというものである。成りゆき上、私が仲裁役をやるような格好になってしまった。損な役割であるがしょうがない。

 そんなこんなで、ともかく海沿いの発展都市廈門から内陸部の龍岩に向かうことにした。ドライバーが用意してきた車は日本のメーカーとタイアップして製造しているという中国製の「天津7」という小型乗用車であった。どうも頼りなさそうなので、乗り心地はともかくジープにした方が良いのではないかといったが、背広姿のガイドは髪をかき上げながら、「ジープはクーラーが着いていないので、こちらの方が快適ですよ」と平然と言う。「おまえが涼しい思いをしたいだけじやないのか」と毒づきながらも、廈門を後にしたのであつた。

 我々の晴々しない気持ちとは裏腹に、気候的には日本の初夏といえるはどで、少し汗ばむくらいの、申し分のない天気である。郊外に出て視界が広がり、砂埃が舞い、自転車に荷物を満載して精力的に働く人達を見ると、また中国に戻ってきたという気分になった。なんだかんだと言っても私は中国という土地と人々の佇まいが好きなのだ。
 ただ、まいったのは道路で、道は車が2台すれ違うのがやっとという狭さのうえ、路面はアスファルトがハゲ落ちてガタガタである。交通量も多く大型トラックやバスがひっきりなしに行き交いする。すべて経済特区の廈門に運ばれる物資である。

 軍隊あがりなので腕は確かだというドライバーは、四六時中クラクションを鳴らし、対向車がいないとみるや、すばやく前のトラックを追い越す。乗っている方は命がいくつあっても足りないという感じで、タイヤが穴に突っ込むたびに、やわな「天津7」のスプリングが底を突き、舌を噛みそうになるのでのんびり外の景色を眺めているわけにもいかない。それでも、どこまでも広がるバナナ畑を抜け、険しい峠をやっとの思いで越えて、約6時間で龍岩にたどり着いた。いよいよ明日は客家人の円形住宅、土楼だ!

山奥の中に空飛ぶ円盤が出現
 龍岩市内から車で1時間ほどで永定県に入るが、この永定県は客家土楼の宝庫ともいえる地域で、
大きく分けて同じ土楼でも先に触れた円形の円楼と四角に囲んだ方楼の2種類あり、永定県だけで大小合わせ円楼が360座、方楼が400座もあるという。そのうちはるか遠くからでもすぐにその存在が碓認できるほどの大型の土楼となると、約30座位のようでる。


 

 永定県では例の背広ガイドの他に、現地の女性ガイドが加わり、大型の土楼が数多く密集している永定県古竹郷高北村に向かった。標高500〜600m程度で高度はそれはどないのであるが、細い山道を延々と進む。山々は新緑の緑に包まれ、空気も清々しく気持ちの良いドライブが統いた。この山道を相変わらず軍人あがりのドライバーは、日本の舗装もされていない田舎道を走るスピードに比べると、信じられない程のスピードで飛ばして行くのであるが、産業道路から外れているため対向車がほとんどないので、まだ安心して景色を眺めていられるのである。

 山は緑に覆われているものの、木々はほとんど低木で高木は見あたらない。ガイドの説明によると、かつては豊かな森休であったが、乱伐と山も畑に転換しようという政府の政策によりはげ山にしてしまったからだという。その後、畑への転換は失敗に終わり、元に戻すために植林したのだという。
 11億以上の人口をかかえる中国だけに、その食料生産のための土地はいくらあっても足りないのであろうが、それはあまりにも無謀な計画といえる。中国南部は気候的に恵まれた穀倉地帯であるが、それがゆえに山が犠牲になってしまったのであろう。昔の森林状態を取り戻すにはこの先最低100年は必要である。

 客家人はもともとは北方に住んでいたのであるが、異民族の進入による戦乱、飢餓、政治不安を逃れるために南下してきたのである。その歴史は古く、秦の始皇帝が中国を統一した頃から南下が始まり、4〜5世紀、9〜10世紀、12〜13世紀に移動が行われ、一番新しいところでは明から清代の17〜19世紀にも移動があり、これで過去5回の大移動を経て現在やや落ちついている状態である。客家人は独自の客家語を話し、固有の習慣や文化を保持し統けている人々なのである。
 客家は文字通り先住していた人々からみると、他所からやってきた“客”であるというところから名付けられた名称である。戦乱が起きるたびに客家人は南下したわけであるが、彼らに残された土地はなく、やむなく奥深い山奥や未開拓地に住まざるを得なかったのである。そのために、強力な家族組織を維持するための団結心が培われていったといえる。また、一般の中国人から離れ、経済的自給自足を迫求した共同体を築くことは、一族が団結した大家族を中心とした小さな“国家”を形成するということでもある。

 そうした過程のなかで客家人独自の文化や言葉を、純粋な形で現在にまで残すことになったのである。現在の主とした客家人の居住地は福建省西部・広東省東部・江西省西部を中心に四川省、湖南省、台湾にも分布している。これらの地域から華僑となって海外に“出稼ぎ”に出た客家人は、常に故郷の家族、一族のことを忘れることなく、必ず成功して錦を飾ることを夢みているという。土着民を避けて山奥へと移り住んだわけであるが、それにしても、よくもまあー、こんな奥までという感じがした。

 谷間のちょっとした平地にさしかかると、円形の土楼が不意に目に入ってきた。「おっ、あれだ!」とつい声を張りあげてしまうはど、気持ちが高ぶってしまった。目的地はまだ先であるが、進む先々にあちらにぽつり、こちらにぽつりと土楼が現われ、だんだんその間隔が短くなり、土楼の密集する集落が近くなっているのが解る。
 土楼を目にした第一印象を表現するのはなかなか難しい。山の中腹から遠目に見ると、緑に彩られた水田と畑の絨毯の上に空飛ぶ円盤が着陸しているようでもある。つまり、人造物であることを忘れさせてしまうような佇まいなのだ。
 さらに、近づくとその表情は一変して、圧倒的な存在感でこちらの判断を迫る気構えを示す。ここでもまだ、人間の手で造られた建築物であることを、どこかで疑わざるを得ないところが残ってしまう。
 それにしても、客家人はどえらい物を造ったものだ。

内部空間はカオス的な世界
 永定県にある土楼集落の中でも最大級の円楼が「承啓楼」であり直径が約79m、周囲が229m、4階建て高さ12mという規模である。入口の前に立つと「でかいなあー」と単純に敬服してしまう。
 建物の規模に比較して入口はあまりにも小さく、入口の回りだけ白い漆喰が塗られ、上部に承啓楼と大きな漢字で表示が出ている。外観から受ける印象は、外界に向かって排他的で要塞を思わせる。4階建てであることが解るのは、壁をくり抜くように開けられた小さな窓の存在でしかない。1層に当たる部分には窓はなく2層から上に窓が穿つてあるため、その窓の位置から4層であると判断できるわけだ。

 円楼にしろ方楼にしろ、
客家人の土楼はすべて要塞として設計されているので、そのことを知ってしまえば外観の造りがこうなることは、容易に納得できる。しかし、こんな山奥に彼らを襲う外敵がいたのだろうか。
 元のモンゴル軍が南宋を滅ぼし、客家人の村を襲ったときこの円楼にたてこもり防戦したという。内部には食料が保管されているし、豚や鶏を飼い、井戸もあるので、1年近くはたてこもっていられるのだという。明代の倭寇も客家人村の土楼は避けて通ったというから、永い歴史の中にあってはしばしば外匪たちが襲い、防御に大きな役割を果たしたのであろう。
 よく考えてみれば外敵の侵入を防ぐために、あの万里の長城を築いた民族である。住居を囲ってそれに備えることなどそれほど大した事業ではないのかもしれない。そんなことを考えながら、承啓楼の小さな入口から内部に足を入れると、そこは威圧感に満ちた外観に比ベ、別世界の生活臭に満ちた混沌とした空間が広がっていた。混沌といっても、いわゆる無秩序な雑然さとは異なるもので、私の五感ではとても把握できそうもなく、戸惑つてしまう。

 承啓楼の内部構造は外周の内側にさらに環状の建物が建ち、それも二重になっている。つまり全体としては同心円の三重円構造になっている。三重円の中心には祖先を祀ってある祖同(ツウタン)があり、居住者の集会場や冠婚葬祭の場としても使用される。小さな入口は大門(タアメン)といわれ、大門をくぐると門庁(マンティン)があり、祖同へと直線の通路で通じている。中心に通じる通路は原則的にはこの一本しかない(裏道として細い路地が他に二本ある)。
 その他の通路は環状の建物に沿ったサークルになっている。初めて訪れた者にとっては迷路そのものといってもいいだろう。承啓楼以外にも数多くの円楼を見たが、大型の円楼は基本的には同じ造りで、あとはバリェーションの展開によって異なってくる。小型の円楼については一重円で、大門の正面が祖同スペースになっている。

 承啓楼の場合は一番外側の環は4階建てであるが、その内側の環は小屋裏付きの平屋建てである。1709年に着工し3年かけて完成したというから284年の歴史があることになる。4階建ての外壁は厚い土壁で内側の造作は木造となっており、混構造になっている。
内部空間。中央が祖同
奥深い土壁のノウハウ
 土壁は当然ながら土を固めたものであるが、壁にするにあたっては版築工法により、型枠のなかに水で練った土を入れて棒で撞き固めていく、西南アジア地区によくみられる工法である。
 原理的には簡単なものに思えるが、なかなか奥深いノウハウがあるのだ。なにせレンガにするなどの加工も施さないで、土を固めただけのものを数百年も持たせるわけであるから、それなりの創意工夫がなければ合点がいかないというものである。
 この地域では土壁を生土(シュントウ)壁と呼んでおり、作り方はまず基本になるこの土地の赤土に石灰と小石を混ぜ、さらにもち米、赤砂糖、烏樟脳という樹の汁を入れる。現地の人にこの説明を聞いたときに、まず想像したのはもち米と赤砂糖はそのものではなく、日本の土壁に藁をつなぎに入れるように、もち米の藁と砂糖キビの茎を入れるのかと思ったが違うという。

 補強には細い竹を入れるので、生土のなかには、食べようとすればそのまま食べられる蒸かしたもち米と水で溶いた赤砂糖を混入する。これは生土に粘りを持たせるためである。それとまったく想像も着かなかった烏樟脳樹の汁は防虫のためだという。
 それぞれの混入度合いは福建省のなかでも土地、土地によって様々で一定したものではなく、上湯村の円楼「徳昌楼」に使用した生土は練り上げた土を1年なり半年間ねかせ、醗酵させてから版築すると、より粘りが増すと説明してくれた。
 承啓楼の生土壁の厚さは基礎部分で1.5m、屋根部分で0.9mもの厚さがある。この厚い壁が「冬暖かく、夏涼しい」要因になっている。壁の施工が終わった後、
内側に木造軸組工法で居住宅部分を造る
 使われている木材はほとんどが杉であった。各階の梁は片側を生土壁で受けて、内側に伸びた片側を直径20〜25cmの丸柱で下から支える。
架構方法は貫と束による組み合わせで上階へと建ちあげていく
 部屋の外に回り廊下が設置されているが、梁はこの廊下の端の手すりまで伸びており、廊下幅にあたる部分が方持ち梁になるように工夫されている。これは円楼全体の安定性を保つために、上からの重力が内側のモーメントとして働く役割を担わせているからである。

 屋根は勾配のゆるい切妻屋根で、軒も深いものとなっている。この地域は雨や台風も多いため屋根の役割は重要だという。この承啓楼では回廊を保護するため腰屋根まで設けてあり、腰屋根の下は収納スペースとして使われていた。
  
自然素材だけで構築
 さて、これはど大きな円楼の部屋数であるが、平屋部分も含めると300以上あるという。ここには代々にわたり江さん一族が住んでおり、最も多い時には900人が暮らしていたが、現在は60家族、200人しか住んでいない。それは都会に出ていった者が増えたからだという。
 一性族が集合した大家族制で幕らしているわけであるが、農作業をはじめとする共同作業については家長の指示に従った生活をする。しかし日常の家庭生活に関しては、結婚した夫婦と子供がひとつの房(ファン)という家族単位で個々に独立した形で生活を営んでいる。
 その暮らしぶりをみると、4階建ての1階は厨房であり、ここで家族が集まって食事をする。冬の寒い時期はこの厨房で煮たきなどの料理をするのであろうが、暖かい時期は厨房の外に設置してあるカマドで料理をしているようだ。承啓楼の場合、井戸が2カ所あるがそこから水を汲んできたりすることを考えると、外のカマドを利用する方が何かと便利なのだろう。
 厨房の上の2階は穀物などを蓄えておく倉庫として使用し、さらにその上の3、4階が寝室を兼ねた臥室(ウオシー)という個の空間となっている。各臥室に通じる回廊は走馬廊(ツオウマアラン)と呼ばれている。円楼の内周をぐるりと囲っており、この4階に立つと内側全体をひと目で見渡すことができる。

 客家人が円楼や方楼である土楼を建築するときは、必ず風水(フォンシュイ)という日本の家相と似て非なるルールに則って決められるのだという。
 まず土楼に適した地形を選択して決めるわけであるが、概して川が流れている平野部と山との境目あたりに建てられることが多いようだ。それは農耕に適し、井戸水が湧く所ということになるが、だからといって彼らが適地を見つけ「ここがいい」と決めたという表現ではなく、風水の判断によって決めたという表現になる。また、そこに建てる土楼を円にするか方形にするかは風水しだいである。
 客家人の土楼に手をそえながら感じたことは、土楼は“地球にやさしい”建物だ、ということであった。土楼の生土の作り方は先に紹介したとおり、自然素材だけしか使用されていない。また、木造部分に関してはいまさら言うまでもなく木の再生を考慮に入れて使うなら永久にリサイクル可能な材料である。
 ましてや作業は人力であり、強固に固めるのは太陽エネルギーの力である。利便性や生産性を追求するあまり化石燃料によるエネルギーを大量に使用した素材や建材が、隅々にまで普及しそのあり方が問われているわけであるが、数百年の風雪を耐え抜いてきた客家土楼はいまこそ我々に何かを提示しようとしているのではないだろうか。


 
こんな小さな土楼もある

 伝え聞くところによると、最近フランスやドイツではどこにでもある土と自然エネルギーだけで構成できる土壁に着目し、研究開発に力を入れているという。日本においても土蔵をはじめ土壁の歴史を持っているだけに、新しい形での土と木による建築物の再考を試みても、その価値はあるに違いない。
 遠目には空飛ぶ円盤に見え、内部に入ると一変してカオス的世界が広がる土楼は、いま振り返っても不思議な建物という印象を拭い去れない。背広ガイドとはいつも衝突してイライラさせられたが、「天津7」の軍人あがりドライバーは寡黙で誠実な人であったことが幸いした。別に意識したわけではなかったが、別れ際に軍人ドライバーとしか握手しなかったことに、後になってから気が付いた。

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